2013年1月28日月曜日

国内旅行はなぜつまらない?

 私は旅行を趣味としている。少しでも時間とお金があれば、常に居住地から飛び出ることを企んでいるといっても過言ではない。見知らぬ土地へ行って、(冒険ではなく旅行なのだから)身に危険が及ばない範囲で、未知のものに驚かされたり、今まで自分が築き上げてきた価値観を突き崩されたりするのは、刺激であり、快感でもある。旅に出るときは、いつも、何かそんな刺激を私にもたらしてくれるものがあるのではないかと、わくわくしながら、列車や飛行機に乗り込む。
 しかし、日本の街では、この期待が裏切られることが多い。長い時間をかけて、飛行機とバスを乗り継いで、九州だの北海道だののある街へ行っても、東京や千葉や川崎を歩いているのと変わらない緊張感で過ごしていることが多いのである。そもそも、上述のような刺激を求めて旅立つ先に、国内は適さないのかもしれない。だが、一つの国内でも対照的に、私の経験ではイタリアは、街を移動するごとに刺激に満ちている。第二外国語としてこの国の言葉を履修していたこともあり、私は(居住経験はないのであくまで旅先として、であるが)この国が大好きである。日本もイタリアも南北に長い地形で、長い海岸線を持ちながらも山がちな国土であり、方言も豊かである等、共通点も多くみられる。では、この違いはどこから来るのであろうか。
 その答えの一つに、本を読んでいて思いあたった。池澤夏樹の小説『キップをなくして』の文庫版に添えられた、旦敬介による解説は、池澤がこの小説の時代設定を、「国鉄民営化後、青函トンネル開通前」としており、それは1987年夏に限定されると指摘したうえで、この時代設定が意味するものを推察している。その中に、次のような記述がある。「それ(引用者注、80年代後半の青函トンネル開通や本州四国連絡橋開通)はあらゆる意味で移動が(略)ものすごく便利になったということであったと同時に、日本全国が、島ごとの区別がはっきりしないのっぺりとした統一体になったということでもあっただろう。それを考えると、一九八七年の夏休みは、日本を旅行するのに、まだ船に乗らなければならず、別の島に行ってきた、異界に行ってきた、と意識することができた最後の夏休みであったと言える」(池澤夏樹『キップをなくして』角川文庫、2009、p.278)。別の個所で旦も指摘するように、旅行家として知られる池澤は、90年代初頭には、日本国内で唯一道路や線路から遮断された都道府県である沖縄に移住をした。この「のっぺりとした統一体」という表現は、感覚的な言葉ではあるが、確かに日本全国を歩いてみると実感されるものと言わざるを得ない。旭川を歩いていても、新潟を歩いていても、長野でも堺でも松山でも熊本でも、都市における体験は似通っている。駅を降りればデパート型のビルが建ち、少し歩けば全国チェーンのショッピングセンターで買い物ができ(これは別の話であるが、私は買い物をするわけでもないのに旅先では必ず大型のショッピングセンターを訪れる)、宿を探してぶらついていれば制服姿の女子高生が大きな声であまり重要そうでないことを彼女らにとってはさも重要そうに話しながら自転車で並んで追い抜いてゆく。これら全ての体験を、私は決して嫌いではない。しかし、どの街へ行ってもこれしかない。私が初めて沖縄に行ったのは2010年のことであるが、那覇もかなりこのような街に似通っていた。因みに池澤は、那覇から知念に転居した後、2000年代半ばには遂に日本を離れフランスへ移住してしまった(現在は札幌に住んでいるそうである)。
 もちろん、半島の先端からシチリアへ橋が架かっていないから、イタリアの方が素晴らしいというわけではないであろう。だが、都市から都市へ移動したときには、「異界に行ってきた」という実感がある。街並みや建物の外壁の色も異なる。通りの雰囲気も異なる。イタリアも日本と同じように鉄道が整備されているが、それでも「のっぺりとした統一体」にはなっていない。わずか1時間の乗車を終えて列車を降りれば、そこには確かに「異界」にやってきたという緊張感をもたらす何かがある。一つ一つの街が、来訪者に異なる体験を提供してくれる。もちろん、両国の歴史の違いもあろう。しかし、89年生まれの私が知らない日本が、まだ分断された島々で、都市ごとの体験にも違いがあったならば、80年代後半から進んでいった、旦の指摘するような変化は、勿体ないことであると言わざるを得ない。
 具体的に何が国内旅行を刺激のないものにしているのか。それはまだ私にはわからない。しかし、言うなればこの国が旅する人の面白みを無くすという意味で「均質で不可分」(私はフランスには行ったことがないが、「格差社会」が問題になってきた高校生の時分、この言葉に憧れた)になってしまっているのではなかろうか。国境の長いトンネルを抜けても、何の感動も待っていない国は、旅行をするのにはあまり楽しくない。

(早・宇佐美)

2013年1月25日金曜日

文化、芸術とは

はじめまして。早稲田大学政治学研究科1年のカネヤマです。
投稿が遅くなり申し訳ありません。
文化政策を受講しています。

私は、文化政策という授業を受講していますが、学部・修士ともに日中韓のFTAについて学んでいます。
そのため、文化について深く考える機会は今までほとんどなかったように思います。
この授業を通して、私の今までの経験を振り返ってみました。

文化や芸術に触れる機会は多くありませんでしたが、その中で一番印象に残っているのはルーブル美術館でジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『大工聖ヨセフ』を見たことです。
小学校6年生の時に家族でルーブル美術館を訪れました。
絵画についての知識も世界史の知識もほとんどなかったため、絵画や彫刻を見ても、ただすごく細かかったり、写真のように写実的だったりとなんとなくすごいなということしか感じませんでした。
しかし、『大工聖ヨセフ』を見たときに全身に鳥肌がたちました。炎に照らし出されたヨセフの目が本当の目のように見えました。ヨセフとイエスの光あて方もなんとなく不気味で、理由はわかりませんが少し怖いと思いました。
この時初めて、人々が後世まで残したいと思う芸術作品というものの存在を実感しました。
たった一枚の絵に信じられないほど強い力を感じました。

もう一つ、ルーブル美術館で印象に残っていることがあります。
それは、小学1、2年生ぐらいの子供たちが絵画の前に座ってスケッチをしていたことです。
授業の一環でみんな一生懸命絵をかいていました。
それまで美術館でスケッチをするという発想が私にはありませんでした。
ルーブル美術館は、18歳未満は無料で入館することができます。
子供たちはよく美術館を訪れ、気に入った絵の前で長いことスケッチを描くことができるのです。
子供たちにとっては遊び場のようでした。
父は、美大出身ということもあってとてもうらやましそうにしていたのをよく覚えています。

それ以来、美術館にはあまり多くは行っていませんが、ポスターを見ると行ってみたいと思うようになりました。
日本の美術館に『大工聖ヨセフ』がきた時には、もう一度見に行きました。二度目に見たときも、全身に鳥肌がたちました。
私にとって芸術体験というようなものは、『大工聖ヨセフ』との出会いのようです。


(早・カネヤマ)

2013年1月24日木曜日

ジャズ喫茶を見て感じたこと


初めての投稿が遅くなり申し訳ありません。小林真理先生の文化政策の受講者の早稲田大学大学院政治学研究科1年カトウです。

私は音楽が好きなので、そのことと文化政策の関わりを少し考えてみました。
高田馬場・早稲田には、私の知る限りではジャズ喫茶が3店あります(ここでいうジャズ喫茶は、ジャズバーやジャズの流れるレストランは含んでいません)。どれも素晴らしいお店です。
ひとつの地域に3店舗も存在する地域はほぼありません。学生街だからそういった店が残っているのかもしれません。全国的に見たら、ジャズ喫茶は昔に比べて激減しています。
端的に言えば、需要が少ないから減少するのでしょう。仕方のない事ではあります。
しかし、(ジャズ喫茶に限らず)個性ある個人店が存在することによる街の魅力がなくなることや、
様々な店があることで様々な人間を受け入れてくれる場所が存在するといった包容力が街になくなるのではないかと思わずにはいられません。
あたりさわりがなく低価格で入りやすいチェーン店が店舗数を拡大していき、個人店が減少していくこと*1は資本主義の上ではしょうがないことなのでしょうが、
文化の多様性がまさになくなっていっている気がします。

行政の文化政策でこういったことにどういった対応ができる(あるいはできない・するべきでない)のか疑問を持ちました。
例えば、大小の劇場を作ることや伝統芸能の保護は、文化政策でやりやすいことに思えます。
それにくらべて、個人店の保護、より一般的に言えば、教養となると公権力が認めない文化的事象は促進・保護しにくい気がします。(間違っていたらご指摘ください)
そもそも、そういった文化は行政が介入しないからこそいいという意見もわかりますし、その通りだと感じますが
何を奨励・促進するべき文化で何をそうでない文化か決めることは、かなり恣意的であるように見えます。
文化政策が偏りのあるものならば、文化事象の多様性は失われるように思えます。
文化事象の多様性は、様々な個人に対する社会の包容力であると考えるので、より文化の多様性に配慮した文化政策が必要ではないかと感じました。

*1 「喫茶店営業の実態と経営改善の方策」平成24年度生活衛生関係営業経営実態調査をまとめたもの

大分トリニータに関する問題

皆様、こんにちは。
小林真理先生の文化政策を受講しております
早稲田大学大学院政治学研究科1年のJohnと申します。

私は昨年11月に総選挙のために地元の大分へ戻り、約1か月選挙活動をしてまいりました。
私が選挙事務所に入ったばかりの11月23日にJ1昇格を決め、再び地元で話題となった
大分トリニータの財政問題について地元で見聞きしたことなどを書き連ねたいと思います。

大分トリニータは大分県にホームを置き、Jリーグに加盟するプロサッカークラブです。
1994年に任意団体「大分フットボールクラブ」、(愛称:大分トリニティ)として設立され、
1999年に運営法人「株式会社大分フットボールクラブ」を設立、J2への参加を果たし、
同年、正式に「大分トリニータ」と改称しました。
クラブ名は、三位一体という意味“Trinity”と本拠地の “Oita”を合わせた造語で、
県民・企業・行政の力を結集してチームを育てていくという意味があります。
当時、自治省から出向し、大分県企画文化部参事であった溝畑宏氏(後の観光庁長官)を
ゼネラルマネージャー(後に代表取締役社長)として迎え、県民・企業・行政の支援の下、
2002年にJ1昇格を果たし、2008年にはナビスコカップ優勝を果たした。

しかしながら、トリニータは、慢性的に財政基盤が弱く、赤字体質が現在まで続いている。
2005年には、「株式会社大分フットボールクラブ」は大分県から
「大分県スポーツ文化振興財団」を通して2億円の融資を受け、
結果的に県民からの税金を投入してクラブを存続させることが可能となった。
2009年には、日本プロサッカーリーグが設立した公式試合安定開催基金に対して、
緊急融資を申請し、Jリーグ理事会にて計6億円の融資を受けるなど、
限りなく経営破綻に近い状態でクラブの運営を行っていた。
2010年にも、再び運営資金が不足する可能性があったため、
再び県から「大分県文化スポーツ振興財団」を通じて2億円の追加融資を受けた。
加えて、2010年から現在まで大分県はトリニータ再建支援のために、
ホームスタジアムである大分銀行ドーム(ビッグアイ)の使用料を全額免除している。
2012年にも、大分県はJ1昇格の前提条件である3億円の借金返済のため、
三度「大分県文化スポーツ振興財団」を通じて5000万円の支援を決め、
県内の市町村も県市町村振興協会の基金を取り崩し、5000万円を捻出することとなった。

このような大分県の対応に対して不満を感じる県民も多い。
県議会総務企画委員会では、「県から「大分県文化スポーツ振興財団」を通じた迂回寄付に
県民は疑問を感じている」など、議員たちから意見が出され、
県議会一般質問でも、「(県内にはサッカー以外にも、バスケットボール、フットサル、
バレーボールのスポーツチームがあり、)どのチームも潤沢な資金で運営されている
わけではない。経営危機に陥れば、財政支援するのか」と質問が出された。
前者の意見に対して、県文化スポーツ振興課長は、「トリニータを支える県民会議」で
市町村から「直接寄付の形を取らないでほしい」旨の意見があったためと説明し、
後者の意見に対しては、県企画振興部長は、県民、経済界、行政の三位一体で
育てるというトリニータ設立の趣旨に触れ、「支援という観点では、トリニータと
(他のスポーツチームを)同列に論ずることは難しい」と答弁し、否定的な考えを示した。

これらの意見・質問は、大分県における「文化政策」の問題点を指摘していると私は思う。
県の外郭団体である「大分県文化スポーツ振興財団」を通した県の支援と
県民に十分に説明・理解されていない状態で、トリニータに特化した県の財政支援は、
非常に不健全で問題があると考えるからだ。
前者は、「大分県文化スポーツ振興財団」を迂回させることで、県議会の議決なしで
トリニータの財政支援を可能にしようとする県の意図が見え隠れし、
後者は、トリニータという特定の団体を支援する理由を明確に説明できておらず、
2012年12月には、かねてより資金繰りに苦労を重ねており、大分に密着した
プロバスケットボールチームである大分ヒートデビルズの運営会社
「株式会社大分ヒート」が県からの財政支援を受けることなく、
財政難を理由にbjリーグを退会してしまったという事態が発生した。

トリニータの財政問題は根本的には解決されておらず、
今後も引き続き県内で議論されていくことになるだろう。
私は、大分県出身者として、大分を地盤とした政治家になろうとする若者として
この問題の行方を見守っていきたい。

2013年1月11日金曜日

非文化的であること

 初めての投稿になります、早稲田大学大学院法学研究科修士1年のkahawaです。他研究科聴講で履修しています。小林先生の文化政策に関連する授業は昨年度も履修しており(政治学英語文献研究)、それ以来考えてきていることを分割して書きます。

 さて、勝手な推測ですが、この授業を履修している方は、「文化は権利である」という命題に肯定的(そうあるべきだと思う)で、かつ正しい(現実に妥当する)と考える方が多いのではないでしょうか。僕はそうです。
 では、「文化は義務である」という命題はどうでしょうか。これまた推測ですが、否定的(そうあるべきだとは思わない)で、かつ少なくとも現在においては正しくない(現実に妥当しない)と考える方が多いのではないでしょうか。僕は、これについては、否定的ですが、ある程度正しいと思います。少し詳しく書くと、「文化的であることは、非文化的であることよりも優れている」という価値判断のもとに文化的たることを強要する、「文化の義務化」という状況が現実に生じつつあると考えます。今回は、「非文化的」であることについて取り上げます。推測だらけで極めて抽象的な内容ですが、ご容赦ください。

 僕が疑問に感じるのは、「非文化的」という語が持ち得る否定的、侮蔑的なニュアンスです。過日の授業では、文化国家や文化行政などの語における「文化」は、当初は「洗練されたもの(野蛮や、洗練されていないものとの対比)」という意味合いだったということが提示されました。その意味に解するならば、「非文化的」という語にマイナスのニュアンスが伴うのは、定義上致し方ないことだと思います(だからこそ改善の推進力が生まれる訳ですし)。また、対象が特定個人ではなく社会や制度なので、ここではこれ以上は掘り下げません。
 では、「文化は権利である」というときの「文化」の意味における「非文化的」という語の場合は、どうでしょうか。今回は、いわゆる芸術文化に多いと思われる、参加に能動性が必要なもの(以下、便宜的に「芸術文化」と表記)に限定して考えてみます。
 まず、社会環境などにより、芸術文化に参加できない「非文化的」な人に対しては、「非文化的」足り得る原因は社会環境であり、そのような状況はよろしくないので、環境を整えよう(アクセス確保)ということになるのでしょう(開発援助には、このような側面があると思います)。ここでは、「非文化的」なこと自体の良し悪しについてどのように把握されているかは、明らかではありません。
 一方、環境は整っているのに芸術文化に参加しようとしない「非文化的」な人に対しては、文化的素養がない、あるいは心が貧しいといった形で、マイナスのニュアンスを有することになっていないでしょうか。「非文化的」であることは、「文化的」であることに劣る、と。先に21527さんが「私の芸術履歴について書いても、教養のなさが露呈してお恥ずかしい限りとなるのは間違いありません」と謙遜された書き方をされているのも(2012年12月21日)、上述のようなニュアンスが存在することを前提にされているのだと思います(違っていたらごめんなさい)。
 このようなニュアンスが生まれるのは、Xenakis48さんが紹介しておられるように(2012年11月30日)、「文化」であるというだけでプラスのイメージが生じる、ということの反射効によるところが大きいと思います。踏み込んで言えば、「文化は人の心や生活を豊かにする」という主張は、翻すと、「非文化的」であることは何らかの形で心や生活が貧しいのだ、という意味にもなりかねないと思うのです。
 しかし、文化が権利であるならば、行使するもしないも本人の自由のはずです。そこから出発して、アクセスが確保されている状況においては、権利行使して「文化的」であることと、権利行使せずに「非文化的」であることは等価なはずで、「非文化的」であることを否定的に捉える(「文化的」であれ、という圧力を生じさせる)のは良くない、というのが今回の主張です。
 文化権を認められている市民がその権利をどのように活用するか、という問題意識をnbkmさんが書かれていますが(2012年6月28日)、上記の僕の主張を踏まえ、みなさんはどのようにお考えでしょうか。

 最後に次回(以降)の内容を少し。僕は、文化権を保障するというとき、その根幹は「文化を強要されない権利(離脱権)の確保」と、「文化的なものにアクセスできる環境の確保(アクセス確保)」であるべきだと考えています。この枠組みに照らすと、文化の魅力を発信すること自体はアクセス確保に資するものですが、「非文化的」であることに対するマイナスのニュアンスを生じさせてしまうと、離脱権への制約になります。
 ということで、離脱権とアクセス確保の内容はどんなものか、文化の義務化とは何を言おうとしているのか等について取り上げたいと思います。文化と健康の関係、複言語主義など、なるべく具体的な内容になるように気を付けます。

(早・kahawa)

2013年1月5日土曜日

先生、みなさまへ

はじめまして、早稲田大学大学院政治学研究科1年で、
小林先生の文化政策の授業を受講しているスギヤマです。
あけまして、おめでとうございます。
みなさまにとって良い年になりますよう、お祈りしております。

実は、初めて投稿させていただきます。今日は、なぜ私が文化に興味を持ったのかについて、これまでなかなか文章にまとめる機会がなかったので、(少し恥ずかしいですが…)思い切って、書いてみようと思います。

思い起こせば…私は、絵を描いたり、歌を歌ったり、きれいなものを見るのが好きで、美術や音楽にはずっと興味があったように思います。それと同じくらい、心の中にずっと引っかかっていたのが、「戦争」でした。本だけではなく、映画、ドラマ…色々なものを見て、こんなことは二度とやってはいけない、とどこかで強く感じていました。毎年、終戦記念日の近くになると放送されるドラマなどは、必ず見ていたように思います。(特に印象に残っているのが、「百年の物語」「愛と青春の宝塚」「少年H」などです。)中学・高校時代は、広島で被爆者の方にお話を聞いたり、沖縄で実際にガマに入ったりもしました。目をそらしたくなることばかりだけれど、いつか戦争を体験した人たちがいなくなってしまったら、この事実は忘れられてしまう、そんな危機感のようなものも、感じていました。

「文化」と「戦争」という私の心の中にあったこの2つを結びつけたのが、在日朝鮮の方との文化交流でした。小学校六年生の時、(確か総合の時間だったと思うのですが、)朝鮮の音楽、料理、民族衣装などを学んだり、実際に在日朝鮮の方のお話を聞いたり、最後には実際に朝鮮学校の子どもたちと交流するイベントを考え、朝鮮学校にも行きました。そのとき、幼心にも、「こんな文化交流があれば、戦争なんておきなくてもすんだかもしれない」「こんな文化交流があれば、戦争という辛い過去も私たちなりのかたちで伝えていけるのかもしれない」…そんな風に、感じていました。その後、(ちょうど中学生の時でした、)ワールドカップや、冬のソナタなど文化面で韓国との交流が急速な勢いで進んだことには、私自身もとても驚きました。

「文化が人と人を結び、国と国を結ぶ」「文化交流が戦争を防ぐ」というと、何だかとても恥ずかしい気がしてしまいますが、いまだに私の心の中には、あの時に感じたことが残っています。そのためなのか…今は、パブリックディプロマシーについて、研究しています。
いつかは、戦前・戦中・戦後通じた文化交流についても調べてみたいと思っています。

小林先生の授業を受けて、また、みなさまのブログを拝見して、これまでとは違った「文化」を見る視点を見つけられたように思います。みなさまの「文化に興味をもったきっかけ」も、いつかお伺いできたらうれしいです。

本年も、よろしくお願いいたします。

スギヤマ(早)

2012年12月31日月曜日

全国大会に出場して

みなさまはじめまして。早大・学部4年のイマイと申します。
とある事情から、文化政策の内容が必要になり、金曜2限の授業に潜らせていただいています。

この授業自体が政治経済の大学院に属しているためか、みなさまの投稿している内容に政治的な関心が多く見られます。そんな中、やや雰囲気のことなるものかもしれません。授業を通して思い浮かんだことを書きます。


私は今年(まだ12/31)、所属する合唱サークルで合唱コンクール全国大会に出場しました。今年の全国大会は、富山県の富山市芸術文化ホール(オーバードホール)にて11/24,25に開催されました。
大会の内容はともかく、行ってみて思ったのが、人通りの少なさです。私がずっと関東近郊に住んでいるため、そのギャップだったのかもしれませんが、富山ですれ違う人のほとんどが、本番舞台用の衣装を片手にもった同業者でした。それだけでは人通りの少なさがあるとは言えませんが、繁華街から駅を挟んで反対側のホールに向かうための地下道では、地元の方がどれくらいいるのか不安になるほどでした。繁華街も同様です。立ち寄ったコンビニでも、どこかで見覚えのある顔の人たちが・・・。この様子から、普段この町はどれだけの人がいるのか、もしかしたら今までにないくらい人通りが多いのではないかと思うほどでした。(こんなことばかり言っていては富山出身の方に怒られそうですね。ごめんなさい。あくまで個人の感想です。)
全国大会のようなイベントに付随して、一時的でも人の多さはそれだけ経済効果があるのは確かでしょう。宿泊施設、打ち上げ会場などは確実に利用されるし、会場近くのデパートには全国大会出場者向けのお土産の宣伝もありました。コンクールのような催しは単なる音楽祭や技術を競い合うことだけでなく、地域活性化の一翼を担ってもいると実感しました。
このような状況になるのも、そもそもは全国大会が毎年、各支部(北海道、東北、関東、中部、北陸、関西、中国、四国、九州沖縄)の持ち回りであることに由来します。毎年、会場が異なるのは何の問題もないように思えます。例えば、フィギュアスケートの大会、規模の大きいものでは国体なども各地で行われていたりしていますから、不思議なことではありません。もっと言えば、オリンピックも今では世界規模で(持ち回りではないが)各地域を挙げて取り組まれています。

そういった各地で行われる全国大会の一方で、毎年同じ会場で行われるものもあります。例えば、春・夏の高校野球や年末の高校サッカー、さらには中学、高校の吹奏楽コンクールです。それぞれ、甲子園、国立競技場、普門館と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。「甲子園初出場」「国立まで行ったことある」「目指せ普門館」といった言葉は、その会場に行った、行きたいのではなく、全国大会出場という代名詞となっています。特定の場所がある競技の中では神聖化された場所であり、かなり特別な意味を持ちます。と同時に、「その競技と言えばどこそこ」のようなイメージ形成にもつながります。その競技を有名にする役割もあるかもしれません。メジャーな競技になれば、それだけ競技参加人口も増えますから、それが全国に波及することで直接ではなくても間接的に文化振興、経済振興の効果があると言えるかもしれません。
全国大会の場所が同じである理由は、各競技の歴史の中で紆余曲折あったのでしょう。ましてや中学、高校の部活動になぜか全国大会が決まった場所であることも多いため、何かあるに違いないのですが、私もこれについてはまだ詳しく知らないため、これからの課題としたいです。

さて、こう見てみると、全国大会のように人の行き来が確実にあるものを全国各地で行うことで経済の活性化が見込める一方、伝統的に決まった場所で行われていて、競技参加人口を増やし、間接的な方法で貢献しているものもあります。文化ホール利用や地域活性化のためには、持ち回っていたほうが良いように思えます。しかし、合唱の場合であれば、たかだか一日二日の催しであり、かつ47都道府県のうちでの持ち回りなのでたまたまめぐり合わせてやってくるようなものです。持ち回りだからといってそれが確実に各地域の文化振興や経済振興に役立っているのでしょうか。では、決まった場所でやるべきなのか、そうとも思いません。そのようなどちらが良いのかということが言いたいわけではなく、何が考えたいかと言えば、このような全国規模で行われている大会があることで文化振興だとか、活性化だとか言うばかりではなく、それを契機にして文化振興ができないのかということです。
全国大会を催すだけならば簡単でしょう。しかし、それがただの一過性のイベントに過ぎないということになっていては、全国大会という機会が活かしきれていないのではないでしょうか。特定の場所で行われるものはある種の閉鎖性も予想されますが、良いか悪いかは別にしてイメージ作りという面では成功していて、競技や文化として認識を強めていると言えます。まず競技や文化そのものを広く認識してもらわなければ、多くの人はとっつきにくいと感じてしまうばかりなはずです。政策と同時にイメージの形成という観点は実は同時に必要なのではないでしょうか。もちろん、あまりに政治的に利用されたりするのも注意しなければなりませんが。
また、一過性のイベントでしかないのであれば、大抵そのイベントに出向くのは一部のファンや関係者でしかないことが多いです。地域の方々にとってはいつの間にか終わっていたイベントです。特に合唱はCMで宣伝されたりもしません。全国大会が行われているらしいけれど、ホールの中では何が行われているのか、どのような様子なのか特に関心がなければ知り得ないことでしょう。フラッと立ち寄れるようなイベントではありません。富山での全国大会ではなく、富山にあるホールの中だけが全国大会なのです。

以前、ハンガリーの合唱祭に参加した際に、合唱祭の中心地域から少し離れた場所にある教会などでコンサートを開きました。これは自主的なものではなく、合唱祭のプログラムの一環でした。いわゆる出張コンサートですね。ただホールの中だけで展開されているイベントなのではなく、ある時期になると地域を挙げて盛り上がるということに大きな衝撃と感動を覚えました。この合唱祭は2年に1度開かれているので、その意味では一過性ではないのですが、大きなイベントにこそ、それに付随して文化振興ができるような機会があってもよいのではないでしょうかと思います。

なんだかまとまりのない話になってしまいすみません。拙文お許しください。
失礼しました。
(早・イマイ)